ばっすい15
一方で、私が完全に絶望的かというと、まったくそうではない。まだ私が面白いと思う文化は残っている。例えば、燦鳥ノムや東雲めぐは本当に有望なコンテンツで、私は彼女らにはお金を払いたいと思っている。ここにはコストと健全性があり、改良があり、そして版図の拡大がある。
燦鳥ノムはいつの日かCMに出て、本当に燦鳥ノムとしてインタビューに答えることになるだろう。そこにはインターネット文化と、設定上の『燦鳥ノム』、そして燦鳥ノムのアクトレスの要素が混ざっていて、誰も切り分けることができないだろう。
東雲めぐは――よく見ると――細かくモデルが改良されている。現実世界により溶け込むようになり、より自然な調和を目指しているように見える。彼女が『人魚姫』のミュージカルをやっていたのは、私には極めて興味深い。彼女はキャラクターの皮をもう一枚被ろうとしている。それは今まで以上に難しいだろうが、私は肯定的に見ている。
ばっすい14
ただ、現在はやっているようなVTuberを見るつもりにはあまりなれない。チェックはしてみたが、興味を持てなかった。あまりにもリアリティーショー的で、配信者は自分に注目を集めるためなら何でもしている。視聴者はスーパーチャットと相手の承認欲求を交渉材料にしている
これが「文化が成熟していく」ということなのだろう。物事は自分の思ったようには進まないものだ。それは理解できる。視聴者の多くは、別に、アニメキャラがYouTubeを始めるとか、人格を持つとはどういうことかとか、そういうのに興味がなかったということも理解できる。そして、悪いことではないし、楽しんでいるなら楽しませておけばいいというのも分かる。
わかるのだが、私は少し危惧している。ニコ生がそうであったように、YouTuberがそうであったように、VTuberもどんどん過激になっていくのではないだろうか? 配信者は再生産と誇張を繰り返して、自分の生活をちぎっては投げ捨てている。視聴者はVTuberが生身の人間であることと、単なる仮想的なキャラクターであることを恣意的に使い分けている。どこかで私はやめるべきだと思っている。
ばっすい13
しかし、これらは事前放送があれまで盛り上がった理由が説明できない。ニコニコ動画で本編前に行われていた事前放送――という名の、VTuberたちが「わちゃわちゃ」して「てえてえ」放送――は極めて盛況に終わったという事実がある。ここでは雑多な人々が集められて、司会がなんかミニゲームとかして、まあなんか盛り上がるという生放送だった。
よく言えば、VTuberは視聴者との本当に緊密なやり取りによって面白くなるともいえよう。
だが、実際は、すでにVTuberは視聴者のおもちゃになっていた。極めて侮蔑的で、このようなcaveat無しでは書けないのだが、はっきり言うと、VTuberは、『馬鹿な女をおもちゃにして楽しむコンテンツ』になりつつある。自由に茶化せる配信者。何を言ってもいい女。英語ができない女に単語テストをやらせて、馬鹿な回答をしたら「草」と書くコンテンツになっている。令和のヘキサゴンかよ。島田紳助にでもなったつもりか? まるで、キャラのイラストを印刷した紙袋をかぶせて女/男を犯すように、私たちは配信者を消費した。
ばっすい21
『バーチャルさんは見ている』というアニメが存在した。VTuberが出るアニメということで、様々な意味で話題になった。そして見事に失敗した。毎週の放送は純粋な苦痛であり、田中ヒメが「来るのか!? ケツのロンが!」と言うのを見るだけのアニメに墜ちていた。
しかし、これは全く自明なことではなかった。なにせ、VTuberが出たとき、我々は「アニメキャラがYouTuberを始めた」とか、「インタラクティブに変わるキャラクター」とか、「視聴者と作る世界」とか言いまくってきたわけだ。2019年にもなれば、我々が作り上げたキャラクターは本当に面白くて本当に最高になっていないとおかしい。多様なバックグラウンドの物語から出たキャラクターたちが、面白い掛け合いをして、EDでは『声の出演 電脳少女シロ:電脳少女シロ』と出ないとおかしかった(最後のは実際にほぼそうだったが)。
アニメをやったわけだ。バラエティでも解説記事でもなく、VTuberが本当に新しいと思われている分野でやったのだから――古いワイン、新しい革袋、新しいワイン、古い袋、なんでもいい――これは本当に成功しないとおかしかった。
ばっすい11
さらに悪いことに、すでに『オフコラボ』という概念まで生まれている。これはおそらく『VTuberの演者たちが実際に対面して生配信をする』という意味で使われているのだが、私はかなり否定的に捉えている。視聴者が「空想上のキャラクターが一緒に仲良く楽しんでいて、それはそうなのだが、メタ的には中の演者も現実で顔を合わせていて、これはなかなか虚構と現実の二重性があってフィリップ・K・ディック的な面白さを備えている」と解釈しているとは信じがたい。彼らは単に、「いつもはYouTubeで配信しているキャラクターが実際い出会って話している」と思っているのだと私は信じる。
だが、配信している彼/彼女らにかなりの重荷を背負わせていることは理解しなければいけない。自分の身の周りで起きたことを、絶え間なく話さないといけないのは、私見では相当に厳しい。もっとはっきり言えば、我々は彼/彼女らのエゴを食い物にしている。
ばっすい10
事実、Vtuberは自分の生活を切り売りして生活している。配信を開けば、おそらく数分もたたずに、「今日コンビニ行ったらさ」といった類いの話を聞くことができる。もはや、『電脳コンビニ』などはあらゆる意味で馬鹿げた表現でしかない。『イラストが単に日常の話をしている』ことからの差別化を図るために、彼や彼女たちは節操なく自分の生活を誇張し、コラボをし、架空の――しかし一部は歴然として事実である――自分を作り上げていく。VTuberはリアリティーショーになっていく。
この状態は、一つにはVTuberという表現の困難さがある。一つには視聴者がそれを望むというのがある。てえてえなあてえてえなあと言って、女を女と通話したという理由だけでレズビアンに仕立て上げる。もちろん、諸君らが「百合とはもっと深淵で」と議論をぶつのは知っている。したまえ。し終わったか?
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一方で、イラストレーションを用い、生配信形式にすれば、このマスを生産するのは容易になる。ひたすら量を投下することで、視聴者を閉じ込める。登録者数の分布は偏り、皮肉にも新規参入が容易で、廉価化が進んでいたために、個人勢はほとんど無視され、YouTubeの巨大なゴミに埋もれる。
現在は、再び3Dへと戻りつつあるが、これは単に『そうなっている』からするのであって、日常的には問題ない。事実、『3Dおひろめパーティ』なるものが行われオタクからカネを巻き上げた後は、いつものイラストに戻ることすらある。つまり、この3Dモデルは単なるパレードのネタでしかなく、3Dモデルのクオリティやできなどは割とどうでもよい。
ばっすい8
今は、新しく入ってきた視聴者は、いきなり既存のコミュニティに囲い込まれる。それはにじさんじやホロライブであり、そこでは毎日のように生配信が行われている。彼/彼女が他のものを探索することは起こらない。彼らは完全に囲い込まれ、彼らが増やす登録者数は在野の個人勢ではなく、そのコミュニティの中の人間だけだ。セレンディピティはない。偶然の出会いも存在しない。
この囲い込みを実現させているのはマスの量、つまり、どれだけの配信量をそのコミュニティ内で出せるか、という量だ。3Dモデルを使った動画はコスト・時間がかかり、コンプライアンスのチェックもあり、資本が巨大であってもそれほど量を出すことができない。キズナアイの動画を見飽きても、upd8には自分の中に囲い込めるだけの弾を(当時は)用意できなかった。
ばっすい7
私が指摘したいのは、とにかくVtuber産業は一気に廉価化したこと、そしてそれは――逆説的にではあるが――個人の参入障壁を高くしたということだ。
スマートフォンの顔認証とFaceRig/Live2DによるVTuberの導入は、3Dモーキャップを必要としなくなった。したがって、人々は大規模なスタジオも、高い設備投資も、そして3Dモデルの外注/内製のコストも払う必要がなくなった。参入コストが安くなった結果、前述のような長大なリストができあがった。これは私見だが、動くイラストになった結果、VTuberはむしろキャラクターではなくアイコン化し、コラボ企画は相手のイラストを配信画面に張ることで代替させられるようになった。ラジオ形式――つまり、もはや動くイラストも、3Dモデルも存在せず、声だけがある――配信も増えた。私にはこれが一体どういう文化なのか判断を下すことはできない。
ばっすい6
視聴者は過激なものを求め続ける。女性同士が話し合ったらやれレズビアンだ米を炊け金をまけと大騒ぎする。オフコラボでもしようものなら、性交の隠喩や、もっとどぎつい修飾語が飛んでくる。対人関係は戯画化され続ける。それも、あなたの現実世界の対人関係がだ。あなたがうっかり話したバイト先の先輩はレズビアンにされ、あなたと毎晩、黒光りする双頭ディルドでハメ合っていることにされる。あなたを守るキャラクターの壁はない。顔だけが美しくなったおまえが、インターネットの祭壇にあげられる。おまえの日常は、おまえが話すほど、徹底的におもちゃにされる。それに耐えられるだろうか? そして、これと『あいのり』や『テラスハウス』のようなテレビ番組とは、何が異なるだろうか?