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しかし、ここまで身軽になったVTuberを待っているのは救いではない。彼らを待っているものは激しい競争だ。ニコニコ生放送やYouTubeライブを見てもらえばわかるが、普通の女や男がニコ生をやっていたところで、誰も見ない。サムネを見て、顔が気に入ったらもうちょっと見る、くらいだ。差別化の要請とは競争の含意でもある。なんとかして見てもらわないといけない。同時接続者数を稼がないといけない――後述するが、スーパーチャットによる商業化によって、視聴者数を確保することへの圧力はすさまじい。
より一層悪いことに、彼/彼女らは、大体においてかわいい/かっこいい/面白いアバターを与えられる。この点で、外見において差異を出すことは困難になる。
生放送に切り替え、キャラクターを削いでいったVTuberに待っているのは、より過激な内面、よりわくわくして、面白くて、変な内面の演者にならなければいけないというプレッシャーだ。
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VTuber――は、生放送をするという手段に出た。台本はなく、演者はその場でそのキャラクターに合った反応をしなければならない。設定を忘れてはいけない。何を言ったかも。もしかしたら、自分は本当は地域の管弦楽団に所属しているが、設定上は高校のサークルかもしれない。三ヶ月前の設定と矛盾しないように。Twitterで勝手に作られた属性もきっちりとこなさなければ……。
個人で配信している人々は、極めて残念であるが、むしろバーチャル性を捨てることで対処する。つまり、キャラクターの部分をほぼ完全に捨て去ってしまう。覚えることは一つ減る。自分がどんなキャラクターであるかはほとんど考えなくていい。ゲイのキャラクターならゲイであることを、巨乳のキャラクターなら巨乳であることだけを覚えておけばいい。もう『電脳そぼろ丼』などという必要はない。『そぼろ丼』でいい。
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二つ目の特徴は、そのキャラクターが閉じていないということだ。
他の創作物なら、俳優は綿密に打ち合わせて、どういうバックグラウンドがあるかを監督や原作者とすりあわせてキャラクターを決めていく。それでキャラクターは閉じる。『ジョーカー』において、ホアキンフェニックスはまあ頑張って役作りをしたが、それも関係者内部の話だ。観客がポップコーンを投げても、ジョーカーがまあ小人もついでに殺しとくかね、とはならない。声優もそうだ。選択肢によってストーリーが変わるNetflixのドラマも、我々は単にあみだくじを選んでいるだけで、究極的な関与はできない。すべては定まっていて、単にどれを選ぶかでしかない(全部の選択肢を見ることと、それらを直列につないだ映画の違いを考えてみよ)。
一方で、VTuberはそうなっていない。キャラクターは常に開いていて、常に変化しうる。
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VTuberをやる方の立場を考えると、二つ、大きな特徴がある。
一つ目は、自分はこのキャラクターであるがこのキャラクターでないということだ。例えば、富士葵のキャラクターを演じる人は富士葵そのものではない。電脳少女シロを演じる人も、電脳少女シロそのものではない。これは極めて当然のことだ。これはVTuberの話題においてはタブーとされることもあるが、私はそんなのは極めてどうでもいいと思う。そのタブーは単に『よいこのおやくそく』でしかない。
何にせよ、VTuberのキャラクターを象徴するアクター(アクトレス)は、キャラクターそのものではない。彼女たちは自己紹介をするたびに、そのキャラクターになり、収録や配信が終わるたびに、元の人に戻る。VTuberの魅力というのは、富士葵からにじみ出るそのアクトレス(アクター)の人格にもある。電脳少女シロがウケたのは、演者のパーソナリティによるところも大きいだろう。電脳少女なのに伝記を読むんだね、とか、「電脳そぼろ丼を食べたんです」(電脳世界何でもある説)とか、そういうシュールさを楽しむ視聴者は多かった。